
ここは、過去に掲載された養老孟司館長から皆様へのごあいさつです.
「共生の世界」
明けましておめでとうございます. 昨年は大変な年でした. でも悪いことばかりが続くはずがなく、今年は案外いいとしだったりするかもしれませんね. 禍福はあざなえる縄のごとしといいます. 良かったり、悪かったり、いろいろあるように見えますが、結局は適当なところに落ち着くんじゃないか、というわけです.
お酒が瓶に半分残っている. いや、もう半分しか残っていない. この二人の意見の違いは、たがいに補い合います. 瓶の中のお酒に注目すれば「未だ半分残っている」のですが、空になった部分に注目すれば「もう半分しか残っていない」となります. 二つの見方は反対ではなく、合わせて酒瓶のなかの空間全体になります.
意見が反対になるのは、そう「見える」だけであって、たがいに補い合うのだと思います. それを「反対意見」と表現すると、しばしば妥協の余地がなくなってしまいます. 生死は反対のようですが、生きているということがなければ、死ぬこともないわけで、両者は補い合っています. 「ある」と「ない」もじつは同じことです. 酒瓶の例をお考えくださればいいのです. 「酒の入った空間」と「酒の入っていない空間」を合わせて、1つの酒瓶のなかの空間全体になっています.
なぜこんな理屈を述べるかというと、人は案外これを忘れるからです. 環境は自分を取り巻く世界ですから、環境という言葉を作ると、いつのまにか「自分」ができてしまいます. でも「環境」という言葉を聞いたとき、あるいは読んだときに、「自分」を考える人がいるでしょうか.
環境問題という表現があります. そう表現すると、周囲の世界が問題だという気がするわけですが、じつは自分の問題でもあるわけです. だってどこから環境なのか、考えたらわからなくなるからです.
田んぼに稲が生えて、その稲に米が実って、それを食べると、一部は自分の体になります. それなら田んぼは「将来の自分」です. でも若い人はそう思っていないでしょうね. 魚を食べたら、魚が自分の体になります. 魚は海の中のいろいろなものを摂って生きているわけですから、私たちは海を食べているわけで、それなら海も将来の自分です. 空気がなければ、たちどころに死んでしまいます. 月面に降りることを考えたら、よくわかるはずです. 空気がないということは、肺と心臓がなくなったのと、同じようなことですよね. それなら空気は自分の一部というしかありません.
以前、東大医学部に勤めていた頃、学生がオウム信者になって、私の部屋に来たことがあります. 「先生、お願いがあります」というわけです. 「なんだ」と聞いたら、「富士宮で尊師が水の底に一時間いるという公開実験をいたします. つきましては、先生に証人になっていただきたい」というのです. 驚きましたね. 空気は自分じゃないから、なくたっていいはずだ. 尊師のように偉い人なら当然それなしで生きていられる. この学生はそう思ったのかもしれませんね. でも空気がないと、変に聞こえるかもしれませんが、自分がいなくなってしまうのですよ. それなら空気は自分です. それなら環境なんてものはないわけです.
人も環境も、生きものどうしもたがいに補い合って暮らす. これからの世界は、そういう考えが主流になっていく. 私はそう思っています.
(2012.01)
「明るい未来」
今年は国際森林年になります. 森は私たちの将来に欠かせない大切なものですが、都会に住んでいると、ついそれを忘れそうです. なぜなら、直接に役に立つとは思えないからでしょうね. それにわが国は森林が多く、国土の七割近くを占めています. それならまだまだ減っても大丈夫. なんとなくそんな感じがするのではないでしょうか.
それはそのとおりかもしれません. お隣の中国や韓国は、森林に乏しいのです. それに比べたら、日本の森林資源の豊かさは圧倒的です.
とくに中国は数千年前から、木材を使ってきました. 歴史上では中原と呼ばれる、中国の都市文明の中心は、中国がはじめて統一される秦の頃まで、大森林地帯だったと思われます. それをひたすら切りました. 万里の長城はレンガ造りで、そのレンガを作るには、土を焼かなければなりません. その燃料である木をどれだけ切ったでしょうか. 秦の始皇帝の墓を飾った兵馬俑は、等身大の人馬の陶器です. 陶器もむろん土を焼いたものです. だからこそ中国はいわば「禿げた」わけで、だからこそ日本に黄砂が降るのです.
じつは森の話だけがいいたいのではありません. 現在の文明も、中国の森と似たことをしているはずです. 文明とは、エネルギーを使うことだからです. エネルギーという言葉が日本語にならない、中国語もなかったというのは、象徴的ではないでしょうか. 森を置き換えたのは、現代では石油で、その石油は明らかに浪費されています. 秦の始皇帝の頃の人は、木材を「浪費している」とは思っていなかったでしょうね. ちょうど私たちがエネルギーを使うのは「当然」で、「浪費している」とは思っていないのと、同じではないでしょうか.
いま中国の経済が発展し、日本経済もおかげでずいぶん稼いでいます. その「発展」の裏は、中国の石油消費です. 国際エネルギー機構の予測では、二〇三五年の原油価格は一九三ドルとなっているようです. 私たちが「経済成長」と呼んできたもの、それは同時にエネルギー消費を意味しています. 経済成長率とエネルギー消費は、ほぼ平行します. 経済が成長するのは「いいこと」ですが、エネルギーの消費はどうでしょうか. ものごとには丸儲けも丸損もない. 長い目で見れば、そういうことになるでしょうね.
とはいえ世界を急に変えることはできません. 国際森林年に当たって、皆さんに考えていただきたいと思うのは、そのことです. やがては石油に頼らない、頼れない時代が来ます. いまの子どもたちが私の年齢になったときには、すでにその時代が来てしまっていることは、まず間違いないことでしょう.
読売新聞の数年前の世論調査では「われわれの子弟は、われわれよりも悪い時代を生きる」という予測が、八割になっていました. どうしてそういう考えになるのでしょうか. 「悪い時代」とは、どういう時代でしょうか. 経済でみれば、私の子ども時代は極端な不幸だったはずです. でもそんなことはありませんでした. 同級生で死んだ子もほとんどいません. むしろ皆が、いまより明るい顔をしていたのではないかと思います.
新年に当たって、地についた、明るい生活がやってくるよう、も一度考えてみたらどうでしょうか.
(2011.01)
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「子どもと昆虫採集」
私が子どものころは、虫取りは当たり前だった. トンボやセミ、あるいはカニや川魚もたくさん取った.
小学校四年生のときに、はじめて昆虫採集の標本を作った. モノのない時代で、まず箱がない. 壊れたタンスの引き出しを使った. でもそれでは針が刺せない. 箱の底が硬いからである. そこで母親の薬局から、薬ビンのコルク栓をもってきて、それを薄く切り、箱の底にノリで貼り付けた. 標本は並んだけれど、今度は箱のカバーがない. いまならガラスをいれるわけだが、そんな高級なことはできない. 仕方がないから、そのまま学校に提出した覚えがある. おかげで金賞はとれず、銀賞になった.
いまではときどき、子どもに虫取りをやらせるといい、という話を聞く. いいも悪いもない. 子どもとは、虫取りのような遊びをするものなのである. それができなくなっているのが、普通ではないので、虫取りをやらせたら子どもが「よくなる」というようなことではないと思う. つまり虫取りがふつうにできるような環境がなくなったこと、それが根本問題なのである.
というようなことを私がいうのは、虫取りを長年してきたからである. だから環境の変化がわかる. それはなにも自然環境だけのことではない. いまの子どもには塾もあるし、いじめもあるし、子どもなりの付き合いもある. テレビを適当に見ていなければ、友だちと会話もできない. ゲームだって、あるいていどは心得ていなければならない. それが世間の付き合いというものである. それをきちんとやっていたら、虫取りの暇もなくなるではないか. 私が子どもだったころなら、虫取りしか、することがなかったのである.
ではいまの状況は仕方がないのか. 私はそう思っていない. 上手にやれば、私が子どもだったころより、はるかに能率よく、さまざまなことができるはずである. 移動には車があるし、インターネットからは、驚くほどの知識が得られる. ひょっとすると、学校なんて、子どもの勉強の邪魔をするのではないかと思うくらいである.
ただ子どものときから自然に触れていれば、大人になって応用が利く. 私は人生で学ぶべきことの多くを、虫取りで学んだ. なぜそれができたかと考えると、好きで一生懸命にやったからである. おそらくそれが大切なのであろう. 本気でやらなければ、なにも本当には覚えない.
大人の生き方を見ていて、どこまで本気か、と思うことがある. 本当に虫が好きな大人たちは、出世もお金もあまり気にしない. 定年まで平で過ごした虫好きのお巡りさんもいれば、会社員もいる. その人生がダメだったと、私は思わない. たくさんの友人がいて、いまでもちゃんと元気に過ごしている. そういう幸せな人たちって、あんがい世間には少ないんですよ.
(2010.01)
2008.07
自然に対する関心が年々深まっていくように感じます. とてもいいことだと思います. そう思えば思うほど、することがたくさんあると気づきます.
子どもたちに、自然との付き合い方を、どう教えるか. 自分が生活のなかで具体的に関わっていないと、教えることはむずかしいし、そうかといって、具体的にかかわっていると、まだ教えるのは早いとか、面倒くさいと思ってしまいます.
その一方で、情報機器の発達が著しく、インターネットを見れば、植物や昆虫の名前も写真も、あんがい簡単に手に入ります. 自分でやる気があれば、自然の勉強はどんどん進められるのです.
ムシテックワールドがそういう人たちの勉強の場として、今後ますます発展すればいいなあと思っています.
2007.04
科学の世界にも、いろいろな面があります. ある意味では、科学が広がりすぎて、一般の人には、ワケがわからなくなっているのかもしれません. たとえば気候変動がそうです. 炭酸ガスによる温暖化だといわれていますが、その理屈を説明できる人がどれだけいるでしょうか.
科学を身近なものしようとする試みがあちこちで行われています. 私もいろいろゆっくりやりたいことはあるのですが、現代社会はほんとうに忙しいのです. 気持ちがゆっくりして、余裕がないと、ものを考えることもできません. ムシテックワールドのようなところで、みなさんにそういう機会が与えられればと願っています. べつにむずかしいことを考えることが科学ではないのです. モノを見て、触って、そこから考えが生まれる. それが科学の始まりなのです.
なにしろやってみなけりゃ、なにも始まりませんからね.
2006.06
長年調べていますが、虫の世界は奥が深い. 虫だけではなく、自然の世界なら、どんなものでもそうだと思います. その自然に興味を持つ人が減ってきたような気がします. いちばんの理由は、自然を相手にしなくても暮らせるようになったことでしょう. 田んぼや畑、森を相手にしている時代は、自然に関心がなかったら生きていけませんでした. でもいまでは、一日のうちほとんどの時間が、人間の作ったもの、あるいは人の相手をすることで過ぎてしまいます. 車を運転したり、人と話したり、つまりは意識だけの世界に漬かっています. これでは自然に目が向きません. それは仕方がないとして、そういう傾向をなんとかするように、ムシテックがあるのだと思います. こういう場所を、大人も子どもも上手に利用することが、これからの生き方じゃないでしょうか.
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